コップに半分の水






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避難所にいたときのこと :: 2011/04/28(Thu)

あれからもう1ヶ月以上すぎているから
忘れてしまったことも色々あるかもしれないけど
覚えているうちに、覚えていることを書いておこう。
思いついたままに書いているので、話があちこち飛ぶし、
とにかく長いです(^^;



地震の翌日、3月12日の夜、
町内放送が響き渡った。
「福島第一原発から20キロ圏内に避難指示が出ました。
 小高区のみなさんは、石神一小、二小、石神中学校の
 いずれかに避難してください。繰り返します・・・・」

ついにきたか。
避難指示が10キロ圏内まで広がった時に、母に
「小高も避難しないといけなくなるかもしれないから
 少しだけ準備しておいた方がいいかもね」
と言って、大きいバッグを出して、簡単な着替えなどを詰めておいたのだった。

夕飯のために炊いたご飯があったので
もったいないからおにぎりにして持って行くことにした。

私は、もしかしたら数ヶ月以上戻ってこられないかもしれないと思った。
そのために必要なものは?何を持って何を置いていく?
いろいろ考えて、結局、命があればあとはもうなんでもいいや、と思った。
パソコンもカメラも、買ったまま一度も着てない洋服も、
生きて戻ることが出来ればまた使う機会はあるんだから、
今は何もいらないと思った。

このとき、母は、一週間くらいで帰ってこられるだろうと思っていたそうだ。
「数ヶ月って思ったならオカアサンにも教えてくれたらよかったのに」
とあとで言われた。

準備をしていたら、電話が鳴った。従姉からだった。
「避難するときに、私たちも乗せていって欲しい」とのことだった。
町内に住む、80代の長伯母夫婦とその一人娘の従姉(50代半ば独身)は
文化会館に避難していた。
同じ町内に住む、一人暮らしの別のM子伯母は役場に避難していたはず。
M子伯母の家は、直後に様子を見に行ったら、倒壊こそしていないものの、
家の中の家具が全部倒れて、茶の間に入れないし、
コタツの上にも家具が倒れてガラスと食器の破片だらけ。
その後の余震のせいで玄関の戸が歪んでしまって、玄関から中に入れない。
窓は全部鍵がかかっていて外から開けられない。
戸をはずす事もできなくなっていた。
つけっぱなしのテレビを消す事も出来ない。そんな状態だった。
貴重品も何も持ち出せない、文字通り身一つのはず。
「R子ちゃん(従姉)、M子おばちゃんは一緒じゃない?」
「え?Mちゃん?知らないわよ」
そっか、一緒じゃないのか。
(M子伯母と長伯母一家はあまり仲良くない。実の姉妹なのに)
いずれにしろ、どちらの伯母たちも車がないので、私が乗せていくことになるだろうとは思っていた。


で、5人乗りの車に6人とその荷物を乗せて、避難所へ向かった。
確か二小はあんまり新しくなかったはず。
小高から一番近いから、もう混んでいるかもしれない。
一小はなんとなく場所はわかるけど、入り口がよくわからない(夜だし)
中学校は、校舎は古いけど確か体育館は新しかったはず。
よし、中学校へ行こう、と決めた。

体育館は新しかった。
巨大なストーブが2台もついていて、暖かかった。
偶然、中学の同級生はんちゃん一家とそのご両親の隣のスペースになった。
はんちゃんの実家は海のすぐそばで、聞いてみたら、やっぱりというか、
家は津波で流されてしまって、なんにも無くなってしまったそうだ。
ご両親が無事で本当によかった。
はんちゃん一家は町のほうでアパート暮らしだから、家は無事。
中学~高校生の子供3人と、その友達もいっぱい一緒にいて
大所帯になっていた。

このはんちゃん一家のおかげで、
私は避難所で元気に過ごすことができた。

とにかく、お父さんとお母さんがいい人で、
どちらも朗らかで世話好きで、ひっきりなしに人が集まってくる。
家が流されたことを知って、友人知人たちが
布団やら食料やら着替えやら、どんどん届けにくるのだ。
それだけで、普段の人望がうかがえる。

そして子供達。
ここんち、何人きょうだいなんじゃ
と思うくらい、友達が集まっていて、
座ったり寝頃がったりして、普通に携帯やDSでゲームしてる。
電気はきているから充電はできるものの、
私はできるだけ携帯の電気を使わないように心がけていたのだけど、
彼らの間には地震の疲労感、絶望感や、原発の緊張感はない。
あるのは、「日常」
いい若いもんがゴロゴロしてて、という見方もあるかもしれないけど、
そのときの私にとっては、
日常そのものの子供達の雰囲気がとてもほっとするものだった。

翌朝、おにぎりの支給があった。
人数分用意してあるので、外のテントに取りにきてくださいと
アナウンスがあった。
が、半分ほどの人にしか渡らなかった。
伯母たちの分のために並んだ私はもらい損ねた。
先に並んだ人たちが、家族分以上に多めにもらっていったのが原因らしい。

私が家から持ってきたおにぎりは、
残念ながら非常に硬くて、伯母たちに食べさせられるしろものではない。
断水していたから、たまたま家にあった無洗米を
給水車からもらってきた水で炊いてみたのだけど、
水加減がうまくいかなくてやたら硬いご飯になってしまったのだ。

少ししたら、「先ほどおにぎりをもらえなかった人のために
少量ですがおかゆを用意しました」とアナウンスがあった。
従姉に「とらちゃん1人分もらってきて」と頼まれたので
並んで、もらってきた。紙コップに半分の量だった。
これきっと、他の避難所で残ったおにぎりをほぐして
作ってくれたんだろうなぁ。

体育館の中で、座っていて何もしていないのに時間は過ぎる。
当初、ラジオが流されていて、官房長官の記者会見のときだけ
ボリュームが上げられた。
聞こえにくかったので、近くまで行って聞いた。
対応している、最悪の事態はないものと思われる、と言っては
温度が上がり、圧力が上がり、建屋の爆発が起こる。
余震も絶え間なく起こる。
不安を感じた人たちは、さらに遠くへ避難するために荷物をまとめる。
このままここにいて大丈夫なのだろうか、という不安と、
耐震構造の新しい体育館だし、家にいたら母と2人だけだけど、
ここには役所の人も頼りになる男性の大人もたくさんいるから
心強さも少なからずあった。

翌朝、一緒に避難できなかった、原町に住む一人暮らしのF子伯母のところに
様子を見に行った。
家は無事、電気も水道ももちろんガスもついて、大丈夫だって。
そこでお願いして、頭だけ洗わせてもらった。
「風呂に入ってもいいよ」とも言ってくれたけど、
そこまでのんびりする余裕はないので(原発が爆発したら怖いし)・・・
F子伯母のところに、M子伯母の薬が数日分置いてあるので
それを受け取るのも目的の一つだった。
「F子おばちゃん、一緒に避難できなくてごめん。
 車に乗せられなくてごめん」
と言ったら、
「私は大丈夫だ。近所の人たちが面倒みてくれるから、
 近所の人たちと一緒に避難するから」
と言ってくれた。

体育館に戻ったら、従姉から
「母(長伯母)が暖かいコーヒーが飲みたいと言っているので、
 外出するついでがあったら自販機で買って来て欲しい」
と頼まれた。
伯母さま・・・こんなときにコーヒーなんてガマンしなよ、
と内心思ったが、年寄りなんだから優しくしないとね。
原町のお客さん宅の様子を見て回るついでに買ってきた。喜ばれた。よかった。うん。

神戸からボランティアの人が来ていた。
ありがたいことだ。

従姉が話をしてきたらしい。
「あのボランティアの人が、ここの避難所の扱いはひどいですね、って言ってた」
と満足気に言った。驚いた。
一生懸命やってくれているではないか。
市役所の人たちだって、避難所の世話なんか初めてなんだから
いろいろ足りないものがあって当たり前だ。
最初は何が足りないのかもわからないんだから。
でも、足りないと分かったものについては一生懸命やってくれている。
食事も、最初のおにぎりが足りなかっただけで、
後はちゃんと三度三度おにぎりと水がもらえた。
原発の不安は別として、体育館の皆が落ち着いていたのは
ライフラインと食事の不安が無かったからだと思う。

夕方には、テレビが入った。大型の液晶テレビ。すげー。
と思ったら、従姉は「今頃」と。
しかも「遠くて見えない」「音が聞こえない」と言う。
見たい人は近くに行って見るのだ。
体育館全体に聞こえるような音量にしたら
きっと「うるさい」と言うんだろうこの人は。

2日目の夜、なんか寒いと思ったらストーブがついてなかった。
灯油が切れそうだから深夜になってからつけるんだって。
・・・だったらなんで昨日から今日にかけて、
あんなにガンガン燃やしてたのさ。もったいない。

とは言うものの、避難してきた最初の日、不安でいっぱいだった夜、
ストーブがついて体育館が暖かかったことで、どれだけ救われたか
と思うと、やっぱり昨日あれだけ暖かかったことはありがたかった。

夜が明けて、いい天気。
はんちゃんが、髪を洗うと言った。もう限界だと。
もちろん、お湯なんて出ないから水で洗うしかない。
シャンプーは、開いてたスーパーで買ってきた。
ちょうど私も、足だけでも洗って、靴下を洗濯しようと思っていたので
一緒に手洗い場へ行った。
2人で冷たいきゃあきゃあ言いながら足と髪をそれぞれ洗った。
ちょっと修学旅行気分。
翌日は私も頭を洗うので手伝ってもらう約束をした。

はんちゃんのご両親のお友達が電気ポットを届けてくれて、
「とらちゃん、これでコーヒーが飲めるよ!」
と言って、本当にコーヒーをいれてくれた。
自分たちだけで10人以上いる大所帯なのに、
私や伯母たちの分までいれてくれて、嬉しかった。なんていい人なんだ。

そうそう、コーヒーの前に、一緒に買い物に行ったんだった。
はんちゃんちの車にはもうガソリンがなくて、
体育館からは移動できない。
私の車はかなり余裕があったので、私の車で一緒に行った。
ついでに、他の避難所にバスで移動したはんちゃんの知り合いを迎えに行って、
はんちゃんの息子の友達が別の避難所にいる友達に会いに行きたいからと
向かっていたら、
カーラジオのニュースで2号機が爆発したと。
悪いが息子の友達の件はキャンセルして、そのまま体育館に戻った。
屋外にいるときじゃなくて良かった。

原発はますます危機感が高まっていた。
原子炉が爆発してしまったら大変なことになる。
「ガソリンがあるなら行った方がいい」と皆が言う。
放射能の不安はあるけど、避難所を離れたら情報が入らなくなるし
個人行動になると心細い。
伯母たちはそれぞれ1人じゃ何も出来ないし、移動の足もないし、
私の判断にかかっている。

福島市に伯父(母の兄)と叔父(父の弟)がいるので、
電話して、今以上に避難範囲が広がったらそっちに行かせてくれるよう
お願いした。
が、福島市は断水しているため、今は難しいとの返事。
電気も今朝やっとついたとのこと。
避難所は電気も水も最初からあるし、トイレもきれいだし、
校舎のほうに行けばウォシュレットまである。
食事も、おにぎりやパンなど、三度三度ちゃんと配られている。
原発から近いのは不安だけど、
行政の目が行き届いているという安心感はある。
はんちゃん一家が隣にいてくれる心強さもある。
悩む悩む悩む悩む。

3日目の朝。
はんちゃんのだんなさんが
「福島市で水道復旧したって新聞に書いてあるよ」
と教えてくれた。
早速福島に電話した。
伯父も叔父も、来てもいいよと言ってくれた。
まぁこの状況で、年寄り(自分の姉妹)達をかかえた姪から泣きそうな声で
お願いされたら断れないわな。

かと言って、本当に行ってもいいのか。
とりあえず行ったとして、その後はどうするのか。
正直、私は、伯母たちと別れたかった。
従姉の身勝手さも嫌だった。
伯母たちは叔父のところに、私と母は伯父のところにそれぞれ世話になって
後は伯母たちのことは叔父にやってもらいたかった。
大事な伯母たちではあるけれど、
ものすごく人任せで頼れる人にべったりと頼り切るところがあるので
(そして後で文句を言う)
私には荷が重過ぎるのだ。

最後には決断し、福島に行くことにした。
はんちゃん達が背中を押してくれたのも大きかった。
別れるときは涙が出た。
ありがとう。本当にありがとう。
なんだか私だけ安全なところに逃げるみたいでごめん。
ガソリンわけてあげなくてごめん。
でも、きっとまた会おうね。
小高で、元気に、会おうね。


そして私は、福島に向かった。



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